2011.12.01

いただきます。

もうずいぶん前のはなしになりますが、「いただきます」ということばが、問題になったことがあるそうですね。

発端は、「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」ということを、学校に申し入れた親が居たとかいうラジオへの投稿がもとで、いろいろなところで論争になったのだとか。

ちょっとへえ〜?と思ってしまうようなはなしですが、いまは学校なんかでは、どうなんでしょうか。


「いただきまーす」と、ごはんの前に手をあわせたりしてあいさつするのは、日本人の文化というようなことも言われるけれど、どうなんでしょう。

「いただく」とは、品物を掌に載せて、頭上に掲げる行為を指します。これにはとても深い意味があると思うのです。一種儀式めいてはいますけれど、でも「いただきます」と言ってから食べる民族というのは、世界広しといえどもほとんどないそうです。
究極の食』 南清貴



ためしに、Google翻訳してみました。

イタリア語で「mangiamo」と出るけれど、これは日本語に再訳すると、「食べる」。

スペイン語で「Vamos a comer」、「のは食べてみましょう」?
中国語「讓我們吃」も、なぜかスペイン語と同じ日本語に訳されます。
スワヒリ語「Hebu kula」も同じ。

英語は「Let's eat」。

フランス語に期待したけれど、「mangeons」。「食べる」。

これは、機械的に訳したわけで、意味から考えるともっと違う訳があるよということもあるでしょうが、食前食後にいっしゅのあいさつとしてのことばがある、というのは、やはり日本独特なものなのでしょうか。

食前に神に感謝の祈りを捧げるという行為に似てはいるけれど、もっと一般的で、日本人はふつう、宗教的なことまでは考えずに「いただきます」を言っていると思います。


「いただきます」を言うのが、いいとか悪いとかいうことではないけれど、そういうことばが普通に聞かれなくなるのは、さみしい気がします。

「いただきます」をなぜ言うのかを考えたとき、やはり、自分たちを生かしてくれる何者かに感謝するという意味があると思うからです。


私たちはどうして毎日食事をしなくてはならないのでしょう?植物は私たち動物と違って食事をしませんね。植物は他の生物に依存することなく、無機物から有機物を合成することができるからです。
動物は進化の過程で、自分で合成するよりも他の生物から摂ったほうが効率がよいために、有機物を合成する能力を失ってしまいました。そこで私たち動物は、生命を維持するのに必要な有機物を摂るために、毎日食事をしているわけです。



それにしても私たち人間は、あらゆるものを食べなくてはなりません。

たとえば、宇宙人かだれかが、いろいろな動物の一種として人間をつかまえたら、与えるべき食事にずいぶん困ることでしょうね。
生の肉を食べさせたら病気になったとか、地球にあった草を食べさせたけれど元気がないとか。


例えばここに豆があります。豆は豆なわけで、自分とは違う物質です。ところが、私たちがそれを食べると、身体の中で消化され、分解され、他の物質と合わさって自分の体の一部に変化していく。ということは数時間後には豆が自分になっているということです。
『究極の食』 南清貴


食べるということを考えると、こういうことまで行きつくわけですね。

あたりまえすぎて、食べれば栄養になるなんて、小さな子どもだって知っていることですが。
栄養のことを知りたくて何冊か本を読むうち、多種多様な食品を、消化の過程でそれぞれ分子レベルにまで分解し、体の役にたつ物質に作り替えていくという、作業をしらぬまにこなしていく、人間の食べるということの複雑さにびっくりしました。


栄養がたりなければ、もちろんいろいろな害があります。
成長できない、病気にかかりやすい、傷が治らない。
飢餓の状態じたいが病的な症状をひきおこし、最後には命の危険に。
貧困で充分に食べられない子どもたちの様子が、それを思い出させるでしょう。


ところが最近は、過栄養による病的な症状が多くみられ、そのために病気にかかり命をちぢめることになることも、めずらしくありません。

メタボリック症候群といわれるのが、その代表的な例ですね。


皮肉なことに、現代の日本の多くの場所では、そこにあるものを食べると、食べ過ぎになるのです。
コンビニの食事、自動販売機の飲み物、手がるに買えるおやつ、おみやげのチキン、宅配のピザ、冷凍食品。
どれも一般的なものですが、どれも、好きなだけ、あるだけ食べていいよ、とは言えません。


食べ過ぎたり、太ることを気にしたり、ダイエットという言葉にピンと反応したり、ということがなくて生活できるのは、かなりラッキーなことなのです。


ずいぶん、おかしなことになってしまっているものですね。

せめて、「いただきます」と、目の前にある食べ物をありがたくいただく気もちは、毎日の生活のなかでちょっとだけ、わすれないでいたい。
子どもといっしょに「いただきます」をすることで、まったく食べることのありがたさを知らないままでいないようにしたい。

そんなことを思うようになりました。


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