冷凍ものがでまわっているとはいえ、やっぱり、さんまは、秋ですね?!
海辺の町に住んでいたり、魚にくわしいというわけでもない私たちにとって、季節感のある魚、旬を知っている魚といったら、さんましかありません。
今年は、東日本大震災というたいへんなことがありましたが、東北地方でも、徐々にさんまの水揚げが始まっているようで、そのことについては喜ばしい限りです。
さんまといえば、「目黒のさんま」なんていうのを思い出しますが、昔から食べられていたのかというと、そうでもないようです。
「目黒の秋刀魚」は、落語で、たしかお殿さまが目黒で秋刀魚を食べる機会にめぐまれ、たいへんおいしいと感動したという話でしたね。
江戸時代には、秋刀魚を食べる習慣が定着していたのでしょうか。
元禄八年(1695年)に発行された、『本朝食鑑』という日本の食品全般について詳しく書かれた本には、秋刀魚はまだ、登場していないのだそうです。沖細魚(おきさより)としてとりあげられ、味は劣っており、干し魚としたなどと紹介されているそうですから、あまりありがたがられなかったのですね。
その後、正徳三年(1713年)の『和漢三才図会』には、佐伊羅(さいら)の名で出てくるそうです。
明和(1762〜72年)頃までは、江戸では食べる人も少なかったのが、徐々に庶民の間で安いということで食べられるようになり、寛政年間(1787〜1800年)になってからようやく、ひろく一般的に食べられるようになったということのようなのです。
なぜそうだったのか、といえば、秋刀魚は、ひかくてき沖あいにいたので、当時の漁船で多くをとることが難しかったのですね。
熊野灘のあたりで300年ほど前に秋刀魚漁ははじまったそうですが、保存法も限られていたので、塩漬けにしたり、干物にしたりしたようです。熊野灘では、秋刀魚寿司も古くからあるそうです。
この地で捕れた秋刀魚は、南下している間にほどよく脂がぬけていて、そのまま焼いてというより、加工するほうに適していたのかもしれませんね。
それが、サイラ網というまき網による漁法が開発され、効率よく捕獲できるようになりました。
そしてさらにその漁法が、房総半島にもそのまま伝わり、脂ののったさんまが、江戸にももたらされるようになった、というわけです。
現在では、棒受網漁という明かりをつけて秋刀魚を呼び集めておいて網ですくいとるという方法で行われています。
沖あいまで出て漁をすることもできるようになり、漁獲量は年々増加してきました。
秋刀魚は、回遊して北から南下してくるものを、捕獲していくわけです。
解禁日ももうけられ、漁法と船の大きさによって決められています。
大量にとれれば、冷凍もするので、1年中秋刀魚を食べることはできます。
より早くにとって、値の高いうちに売り出されるものもあります。
それでも、やっぱりサンマは秋刀魚。
秋の味覚として、とっておきたい。
いつまでも、秋になると秋刀魚がおいしいね、といいたいものですね。