人間としての力が少なくなってくると、途端に片づけができなくなってきます。
たかが片づけと思われるかもしれませんが、大津さんご自身がとても散らかった、片づけられない状態の日々が続き、そのころは「なぜ、誰も私のために何もしてくれないの?」と、つねに不満をかかえていたそうなのです。
じつは、離婚がきっかけで精神的におおきな負担を受け、片づけにまで気をまわし、そのために体を動かすということができなくなってしまった、ということでした。
府中の本のソムリエ☆えちごや佐伯さんが、YouTubeで上大岡トメさんの『キッパリ!』について「ばかじゃねーの、とか思ってたの」と発言されていたのも、思い出しました。
⇒府中の本のソムリエ☆えちごや佐伯さんの「本の力」 個人レッスン♪ - YouTube
本当に生きる気力がない、引きこもりの人たちがどうやったら布団からおきあがれるか、と、そんなことを書いた本だ、というので、ちょっとびっくりでした。そのために、あの、「キッパリ!」というポーズがあるのだと、佐伯さんはおっしゃるのです。
主婦がふつうに、掃除をしたり家のなかをきれいにするための本じゃなかったの?
ということは、とても売れているというこの本を好んでもとめた人たちは、なにかしら無気力さをもっているということなのでしょうか?
「女性は、芋の皮を剥きながら神にちかづく」ということばを、本で読んだ気がします。
たしかこの本、と思って見返してみたのですが、どうもわかりません。いろいろと探して、ようやく思い出しました。
『幸せな子ども』という松井るり子さんの本でした。
女の人はおむつの洗濯をするから、台所で芋の皮をむくから、心の目が浮き世の地平線の彼方、はるか高く神に向かっている。ゆりかごを動かす者は世界を動かす。
というのでした。
なにか気になっていることばで、誰か別の人の本を読んでいると思い出すことがあるのです。
さいきんでは、
『食べて、祈って、恋をして』というエリザベス•ギルバートの本の中で、これは同じことをいているなという文にであいました。
私の仕事は寺院の床磨きだった。一日に数時間、お伽ばなしに出てくる継娘そのままに、ブラシをバケツを用意し、冷たい大理石に膝をついて、せっせと床をこすり洗いする。やっているうちに、この仕事には隠された意味があることに気づいた。寺院を洗い清めることは、わたしの心をきれいにすること、魂を磨くことと同じだ。日常の何でもない仕事を一生懸命やることが、自身を浄化する精神の修行につながっているにちがいない。
これは、「わたし」がインドのアシュラムでの修行で、仕事として行っていたことです。「わたし」も、じつは離婚を経験し、夫との確執をひきづってしまうことから逃れるために、旅に出たあいだの経験です。
そういえば、日本にも、修行僧というものがいて、おなじように、掃除を行としておこなっていますね。
女の人は、わざわざ修行といわなくても、昔から日常的に、そうやって自分を磨いていた、ということなのでしょうか。
そして、そういう類いの仕事から、洗濯機や掃除機、その他もろもろの電気用品によって解放された結果が、初めに書いた「人間としての力が少なく」なったことにつながるのだろうか、と、ふと思ってしまったのです。
女性が社会進出をして、会社で能力を認められる、ということが悪いわけではありません。
けれども、職業やのそ技能によって自分の存在を世の中に主張するという以外にも、生き方があるのだろうと思いました。
じつは、そういった生き方こそが、家族を支えていたのではないかとも、思えてきます。
掃除を、洗濯を、台所仕事を、自分の手でこなしながら、そのことによって生きるパワーをえていたのかもしれません。
集中とか精一杯とかいうのがあほらしいくらいの、自然な力で働くことができていたのだろう、かあちゃんとか、おふくろとかいう女性たち。
そのパワーは、ほほえみや笑顔となってちゃんと家族にも分け与えられていたのでしょう。
包容力、愛情、そんなふうに言ってもいいかもしれません。
さて、自分にそんな力があるかどうかというと、うーん、お粗末、としかいえません。
これからでもまだ、芋の皮むきをし、床磨きをしながら、力をえていくことができるでしょうか。