少ないもので、すっきり、暮らしたい。
つねづねそう思っているのに、そうできないのは、なんなのでしょう。
じつは私はこの夏、義父が亡くなるということがあったのですが、その後に遺品の片付けという大仕事がありました。
義父は、定年後畑をすこし借りて野菜を作っていたり、なにかものを作ったり手入れしたりすることが好きで、そのための道具もたくさんありました。
もともと昔気質で捨てたくないうえに、なにかの材料にととってあるものが、木材のきれっぱしや改修していらなくなった風呂桶、古いタンス、ドアやサッシの窓と、ありとあらゆる種類のものでした。
義父はそれらを、使う目的にあわせてきちんとしまっていたようでしたが、年とともに体も動きづらくなり、使うこともなく古びたり、物置からはみ出して雨ざらしになってしまっているものもありました。
それらをどうするか、と考えた末、物置自体ももう古くなってドアの開け閉めも満足にできない、雨漏りのする状態だったので、業者にお任せしてすべて運び去ってもらうことにしました。
もしかしたらまだ使えるものもあるだろうな、という思いもあって、事前に物置の中や道具類をほんの少しだけ、とりわけてはおいたのです。
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業者の方が、荷物の運びだしと、ものおきの撤去作業をしてくださるには、3人で4時間ほどの時間がかかったでしょうか。
まだ奥の方には、残しておきたいものもみつかるかもしれないと、物置に近よってはみたものの、あまりの埃のすごさと、業者の方のテキパキした作業の邪魔になってはいけないという気持ちで、宝探しは断念。
ひとつひとつ、いる、いらない、と分類して、要らないものはさらにゴミとして分別して、袋につめたりまとめたりして指定曜日に出す、という膨大な手間を考えれば、少々お金がかかったにしてもよかったと思っています。
事前に出しておいた、義父のタンスや衣類、物置とその周辺の雑多なものを片づけていただいて、ほんとうに、気分もすっきりしました。
義父にとっては、たいせつなものもあったかもしれない、それを捨ててしまうということに、申し訳ないという気持ちもありました。
けれどもここ数年は、これらのものは、家族のお荷物にしかなっていなかったのです。
のこった家族の誰もが、すっきりしてよかった、と思いました。
ところが、まだまだ出てくるのです。
使わなくなった植木鉢、義母のタンスの上にのっていた雑多なもの、使わない布団、もらいもののお盆や食器の使わないまま古くなったもの、などなど。
あんなにすっきりしたとおもったのに、ちょっと他に目をやれば、同じようにいらないものが、つぎつぎに出てきます。
もっと要らないものを、まとめて引き取ってもらえばよかった、と思ってみてもあとのマツリです。
それにきっと、まだまだ他にも、でてきてキリガナイのでしょう。
なんていうことでしょう、引っ越しトラック1台分くらい、いらないものを引き取ってもらったというのに。
私は、この家では新参者です。
結婚してしばらくしてから、この家に住むようになったこともあり、自分の領分だけ、なんとか守っていようとしていました。
同居を始めた当初に、2件分の家財道具をどう1軒の家に落ち着けるか、何を処分するか、といったことでかなり揉めてしまったこともあって、それ以降は、ものの多さにも目をつぶるしかないと、自分を納得させていました。
ところが、あふれだしたものはどんどん、私の領土だったはずの場所へも侵入し、私の心の中へもしのび込み。
あきらめ、みてみないふり。
だったのです。
山本ふみこさんの『片づけたがり』のなかに、そんな私にぴったりのことばを見つけました。
自分の暮らし方を貫くということには、ある激しい一面のあること
他の人の価値基準で贈られたものを、たんにいただいたもの、記念だからというだけで自分の家にとりこまなくてもよいのだ、そう思ったら、気が楽です。
モノを捨てる、捨ててすっきりする、ということがいわれるようになり、捨てる技術の本も、なんてたくさんあることでしょう。
捨てるなんてもったいない、のは、あたりまえです。
これからさき、少しでも、ただ捨てる、ということをしないでもすむように、自分と、そして家族の暮らし方も考えていかないといけないんですね。
ただ今は、まずはすっきりした空間、空気、その気持ちのよさを家族みんなが納得できるように、もう少し捨てるという作業を繰り返すしかないのでしょう。
最後にたどりつくのは、少ないもので充分に気持ちのよい暮らし、好きなものだけに囲まれてゆったり気持ちのよい暮らし、です。
いつもありがと!小雪(しょうせつ)でサムサム、でもpotiはおねがい!

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