2009.10.06

子どもと教育と親

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外山滋比古さんの『思考の整理学』を読み始めています。

 ところで、学校の生徒は、先生と教科書にひっぱられて勉強する。自学自習ということばこそあるけれども、独力で知識を得るのではない。いわばグライダーのようなものだ。
 (中略)
 学校はグライダー人間の訓練所である。飛行機人間はつくらない。グライダーの練習に、エンジンのついた飛行機などがまじっていては迷惑する。危険だ。学校では、ひっぱられるままに、どこへでもついて行く従順さが尊重される。勝手に飛び上がったりするのは規律違反。たちまちチェックされる。やがてそれぞれにグライダーらしくなって卒業する。


わが家の次男も小学校に入り、なるほどなあと思うこともあるのです。

 外山滋比古著作
「これまでの知的活動の中心は、記憶と再生にあった」ということですが、たしかにそうです。


知的というばかりでなくても、録音ということができるようになり、再生機能も現在ではとても発達し、いつでもどこでも音源を聞くことができます。

録画というのも一般的になって、うごかない画像からはじまって、あらゆる動く画像がかんたんに録画できるようになりました。
再生も、いつでもできます。


人間は、そのほかいろいろな機械を発明し、たとえば人間が手作業でやってきたことも、機械がかたがわりするようになりました。

これは、あるひとつのものの再生ということでは、人間よりよほどすぐれています。
故障でもしないかぎり、間違いなく同じものを、疲れもせずに再生しつづけます。

そして人間は、手作業や肉体労働の場をおわれました。


それならばということで、大事なことを覚える、必要なときに思いだす、という引き出しの多さで勝負できるように、教育の場ができ、グライダー人間をつくってきたのですね。

サラリーマン、事務職、ホワイトカラーといわれる人たちが、この教育の成果をいままでは発揮することができていました。


ところが、ここへきてコンピューターの出現です。
ひつようなことは、すぐに、驚くべき早さで再生できます。

しかも、最近では、その記憶をもちあるくこともでき、自分が記憶させた以上の膨大な量の記憶を、ネットから、必要に応じてひきだすことができます。


そうなると、いままでいっしょうけんめいに、より正確に記憶し再生できることを目的としてきた
学校
はどうなるのでしょう。

 これまでの学校教育は、記憶と再生を中心とした知的訓練を行ってきた。コンピューターがなかったからこそ、コンピューター的人間が社会で有用であった。記憶と再生がほとんど教育のすべてであるかのようになっているのを、おかしいと言う人はまれだあった。コンピューターの普及が始まっている現在においては、この教育観は根本から検討されなくてはならないはずである。



さてそこで、次男が1学期の終わりにもってきた成績表をみると、どうだったでしょう。

今の小学校は、どこでもそうなのかはわかりませんが、○と◎、△で、できぐあいをあらわしています。
国語、算数などについて、○○ができる、という項目が8〜10個くらいもならび、それぞれについて、○か△か、というような評価がくだされています。


次男は、だれとでもよく遊び、体をよく動かし、面白いことを見つけると好奇心いっぱいで見て、自分でもなにかしら工夫してつくることが好きです。

創造力がたいせつ、ということは、あまりによく言われることです。

こういった、どんな子どもにとってもとても大切だとおもわれることについては、学校は、どんな評価をあたえるのでしょうか。


次男についていえば、体育と美術については、◎が多く、まあ成績が良いと申せましょう。

そのほかでは、生活面の、お友達と仲良くできるとか、あさがおのかんさつができたとかいったことが、○です。


一般的にいえば、国語、算数、そのほか理科、社会といった教科が重要視されているようすは、むかしからあまりかわりません。
体育、美術、生活などは、よほどその分野のある才能に秀でているということでなければ、これから試験や進学といった面では、あまり役にたちそうもありません。


ことばのうえでの目標は、お友達と仲良くだったり、協力や創造力ももちろんたいせつなこととしてかかげられますが、授業の内容や評価とは、あまりに関係がないのです。

学校生活全体として、そういう目標にむかってやっています、ということもあるでしょう。
じっさい、次男の通う学校、クラスでは、先生方個人こじんのやり方で、そういう面もたいせつにしてくださっているのはわかります。


それでも、評価は評価で、家庭で受けとめて重大にかんがえるのは、漢字の読み書きができた、算数の計算ができた、という部分になリがちなのですね。


ゆとり教育といってみたものも、うまく機能しませんでした。
これからまたしばらくは、子どもたちは、つめこまれるものが多くなるのかもしれません。

まだまだ、日本のグライダー教育は、かわらないようです。


 親は学校の側についてしまうのでなく、あくまで子どもと自分とのかかわりの場に立ちつづけたい。文字を教えたりハーモニカを吹かせたリが、成績とか教師の便利のために強いられるとすれば、親自身の責任はどこにあるのでしょう。
 やはり、学校という「公」に、親子の「私」を預けてはならないと思います。
幼い子のいる暮らし』毛利子来


じつは、成績表をもらってきたときに、うん?と、ちょっと首をひねるところがありました。

本をとても読むと思っているのに○だったり、音読はとても上手とおもうのに○。
まだ気になることはありますが、親の欲目ではないの?と思われそうですね。

これは、やはり親の見ている面と、学校子どもが見せている面がちがうことからくるのでしょう。
また、いくら1年生の先生ががんばっても、30人弱のそれぞれの
評価について、完全に把握しているとは、いいがたいとも思います。


私は、子どもがはじめてもらってきた成績表についてのこの違和感を、ずっと忘れないようにしたいと思っています。

これからさき、国語や算数の成績ばかりにめがいかないように、成績表やテストの評価で一喜一憂しないようにすること。
それは、学校というフィルターを通してでなく、自分でしっかりと子どもをみつめていくという覚悟がひつようだと思います。



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