2009.09.07

和泉式部の日記の不思議

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あらざらむ この世の ほかの思ひ出に 
 今ひとたびの 逢うこともがな


百人一首のなかの、和泉式部のうたです。


源氏物語』の紫式部、『枕草子』の清少納言にくらべると、古典の授業で普通にとりあげられることもなく、和泉式部の名前は知っていても、『和泉式部日記』は読んだことがないというかたも多いかもしれませんね。

書きのこした文学としては、ほかのふたりの平安女流作家にくらべて有名ではないかもしれませんが、歌、和歌については、すぐれていたようです。

 ⇒和泉式部
「和泉式部といふ人こそ、面白う書き交しける。されど、和泉はけしからぬ方こそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌は、いとをかしきこと、ものおぼえ、うたのことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、
(中略)
「和泉式部は手紙など上手におもむき深く書く人です。けれども品行がふしだらで評判はよくありません。何気ないはしり書きなどしても、天性文才が合って、何気ないことばにもつややかな美しさが匂うようです。歌はたいそう上手です。ただし、古歌の知識や歌作の理論などでは、ほんものの歌人のようではありません。
『私の好きな古典の女たち』瀬戸内晴美


ということを、紫式部は、その『紫式部日記』のなかで言っています。
紫式部自身は、『源氏物語』で「けしからぬ」男女の関係をえがき、光源氏には自分の父親である天皇の中宮である藤壷と関係をもたせたりもしているのですが。

女性としたら、そんなふるまいはどうなの?ということなのか、物語ではありえても、現実にはちょっとねということかもしれません。


 式部は「恋多き女」として、その生前中も死後も、浮名を流した人です。しかし決して好色多淫な女ではなく、純情で真実な恋を求めたということでしょう。
文車日記』田辺聖子


 和泉式部はその生をおわるとき、遍歴した恋、先立たれた子、去っていった男たちを思い、人生に未練も執着もなまなましく抱いて逝ったのではなかろうか、自分の生涯で自分のドラマを創ってきた人間は、心ならうも超越者の手でそのドラマを閉じられることに執念き未練がありはしなかったろうか。
源氏紙風船』田辺聖子


 私が和泉式部、この日記のヒロインである作者を好きなのは、好色とか多情とかの評判にかかわらず、彼女の残されたおびただしい恋歌の中にあるものに、実に澄んだ美しい純情と、みやびな心と、限りない人間の寂しさとを感じるからです。
『私の好きな古典の女たち』瀬戸内晴美



平安時代には、男性が女性のもとへ忍んできて恋人となるということを考えれば、ひとり和泉式部だけが、それほどに「けしからぬ」とも思えないのですが。

和泉式部はまず、和泉守の橘道貞の妻となりますが、冷泉天皇の第三皇子である為尊親王、弾正宮に愛されるようになります。
弾正宮はわかくしてはやり病で亡くなってしまい、ひとり嘆きつつさみしく暮らす和泉式部に、弾正宮の弟である敦道親王、つまり
帥の宮の求愛を受けます。

そこからの様子が、『和泉式部日記』につづられるわけです。


橘道貞との関係は、親も公認のもの。
弾正宮は、それこそ光源氏のようなあちらこちらの女性をたずねて歩く男性だったようで、和泉式部のほうが、その情熱にほだされてという感じで、関係がはじまったのでしょう。
『源氏物語』の光源氏と六条御息所の関係をおもいだします。
和泉式部は、弾正宮よりすこし、年上なのです。

若い弾正宮をうしない、嘆く和泉式部にとって、帥の宮のそんざいは、慰めにもなったのでしょう。

帥の宮のほうは、派手な弾正宮にくらべて誠実だったように思われます。
和泉式部も、はじめは亡き弾正宮にイメージを重ねたり、比べたりしていたものの、帥の宮のいちずさにい魅かれていったのでしょう。


平安時代、貴族の恋愛は、男性から一方的にはじめられるものです。

結婚といえども、男性が三日間のあいだつづけて同じ女性に通い、三日夜の餅を食べ、ところあらわし、露顕といういまの披露宴のようなものが行われてはじめて成立したようです。

両親やおつきの女房が娘をしっかり管理していてこそ成立するものですね。

結婚が成立したからといって男性がつねに女性の家に住むわけではありません。
男性は、さらにあちらこちらの女性の元に通うことができます。
いわゆる、一夫多妻なわけです。
そのなかで、特に地位が高い家の女性が、正妻となって男の邸に入ることもある、というわけですね。

男性の方に通っていく意志がなければ、徐々に疎遠にもなるわけですし、せまい貴族社会の中でのことですから、評判が良い女性のもとには、何人かの男性が通おうとしたり、実際に通う場合もあったでしょう。

男性としても、三日間通い続けなければ、かるい浮気ていどの意識ですから、また一月後に思いついてというようなことでも、不便はないわけです。


女性のがわとすれば、その恋愛関係をはじめるかはじめないかは、おくられてきた和歌に返事を出すか出さないかでほぼ、決まるのです。


こんなふうに、弾正宮や帥の宮と恋愛をしつつも、さらにほかの男性とも関係があったように、和泉式部はいわれています。
それは、噂だけのことではなかったのでしょうか。


正妻がいるにもかかわらず帥の宮の家にひきとられはしたものの、
帥の宮も若いうちに亡くなってしまいます。

『和泉式部日記』には、そこまでは書かれていませんが、その後に藤原道長に乞われて、道長の娘彰子につかえる女房になっています。

当時の有力な貴族はみなそうですが、自分の娘を帝の後宮にいれ、その娘の生んだ皇子が次の帝になってくれることを願っています。

このころの帝は一条天皇です。

一条天皇のもとには、すでに道長の兄の道隆が、娘の定子を後宮いりさせています。
一条天皇は、定子のことを気にいっています。
定子のまわりには、あの『枕草子』で有名な清少納言など才気煥発な女性が女房としており、楽しげなその雰囲気にもひかれたのでしょう。

それに対抗して、道長は、彰子には『源氏物語』で有名な紫式部ほか、多数の女房をつけ、後宮におくりだします。
そしてさらに、一流の女流文学者をあつめんと、和泉式部なども出仕させるわけです。

そのような場に、あまりにも評判の悪い女性を、仕えさせたりはしないでしょう。

もちろん、和泉式部の名は、宮廷のくちさがない女性または男性のくちにのぼることもおおくはあったでしょう。
男性には、どんな魅力的な女性かと。
女性には、身持ちの悪い女性として。


そんなふうに生きた和泉式部の日記、じつは、三人称でえがかれています。

私ではなく、「女」が主人公です。

それでも、日記として読むと、違和感があります。

「宮さまは、歌人和泉式部の噂にたがわぬ筆の見事さと、即妙の歌に、すっかり魅せられて」
「若い宮さまは、あの共寝した夜の、式部の成熟した色香が忘れられなくなっている」

また、和泉式部が帥の宮の家にひきとられた後の、帥の宮の北の方のほうでの和泉式部に悪口を言う様子などもえがかれ、これは日記なのだろうか、どこまでがほんとうのことだろうか、と不思議に思いました。


『紫式部日記』のほうはほんとうに個人的なもので、世に出すためのものではないのでしょうが、『和泉式部日記』は、日記のなをかりたものがたりなのでしょうか。


いろいろと興味をさそわれる和泉式部ですが、私にとって印象的なのは、木原敏江さんのまんが、『読み人知らず』に登場する帥の宮と和泉式部です。

ほんの脇役で、和泉式部はいちばん最後の頁にでてくるだけなのですが。


 くらきよりくらき道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月




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