2009.06.17

個性的ではないこと

個性」というものは、窮屈な法則性から自由になってしまったもの、そこから逃げ出してしまったものだという風に、うっかりすると考えられてしまうが、しかしきちんと法則性に合致している、「規矩に適った個性」というものだってある。つまりそれは、「それでも私は人間である」と言うような個性だ。


自己主張のない個性、それはどんなものでしょう?

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これは、法隆寺金堂旧壁画について、橋本治さんがおっしゃっていることばです。

昭和24年に火災で被害をうけ、その後復元されて現在、法隆寺金堂にもどった壁画。

もともと剥落がひどく、壁画が制作されたとうじの姿は想像するしかないのだけれども、それでも、じゅうぶんに美しく、気品に満ちた仏たちのすがたがそこにあります。

これを描いたのは、名もない技術者たち。
鉄線描という、均一の太さの線で画く、描きかたです。

私たちがまっすぐ線をひこうと息をつめると、とちゅうで力が入りすぎたり線がゆらいだり息継ぎとともに線がきれてしまったりしますが、そんなことのない、どこまでも太さのかわらない線です。

それでいて力が入りすぎず、伸びやかな線で、壁いちめんのたちが描かれています。

それは、自分はこうかいてやろうとか、ここはこうしたい、ということをぬきにした、ただ素直な仏たちのすがたといえます。


 ところで、私は、三十代の半ば頃までは、どの本を読んでも「清水眞砂子訳」とわかるような翻訳をしたいと思っていました。でも、だんだんこれは違うぞと思い始めて、四十代に入る頃からでしょうか、どこを読んでも絶対「清水眞砂子訳」とわからないような翻訳をしたいと思うようになりました。つまり、訳者は、黒衣に徹するとうことをしなくしゃダメだと。


これは、清水眞砂子さんのことばですが、いちいち本の著者と読者のあいだにたつようなことは、うっとうしいだけだと、おっしゃっています。


さらに、

「手は大事です。でも、手が主役にならんようにしないといけない。技を見せてはいけない。技を見せた唐紙はイライラするもんです。手はそっと添える程度で良いんです。板木の模様が紙にうつるのをさりげなく手助けするのが手の仕事です。」


これは、京からかみの唐長十一代目の千田堅吉さんのことばです。


いかがですか?

それぞれ、これ、という技術をきわめた方たちのはなしです。
こういう方たちを、プロの職人というのでしょうか。


私としては、職人技をきわめるとか、個性を発揮するまたは、個性をおさえる、ということは、どんな脳の働きによるのだろうと、不思議な気がしています。

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