2009.05.07

春の眠りは暁を覚えずか

ゴールデンウィークも、わが家はカレンダーどおり、終了。

やはり、子どもと一日じゅういっしょの生活では自分の時間がとれず、ブログはあきらめていました。

ただ、それほど遠出をするでもなかったので、朝、ゆっくりさせてもらって、ちょっと幸せでした。


岡本綺堂の、『江戸のことば』を読んでいたら、なんとも頷ける文があって、おもしろかったのです。

 岡本綺堂の本
睡眠の幽味は暁にある。殊に春が可い。春眠不覚暁とは能く云ったものだ。春の暁、殊に彼岸の頃から四月の中旬頃までが最も可い。午前六時から七時頃、徐か眼を醒す――いや、本当に醒めてしまっては妙でない、醒めたような醒めないような、所謂半睡半醒の夢心地で、頭から夜具をすっぽりと被っていると、春の暖かい朝日が窓の隙から柔らかに映し込んで来る。


というようなところから、誰かの声で目が醒めたかと思えば又眠り、明るくなっていよいよりが浅くなって、考え事をしているかのようでいつの間にか夢に落ち、そろそろ起きようかと思いつつこんどは体が起きない。

1、2時間も、寝ては醒め、醒めてはを続けたあげくに、ぼんやりと起きる、そんなのが「快い夢心地という」ものだそうです。


すぱっと起きてなにかを始めたいという方には、なんとも無駄に思えるかもしれませんが、いいですよねえ、こういうのも。

最後には起きなければ、ということがわかっていても、ぐだぐだしているかんじ。
きょうはもういっそ、ずっとってしまおうかと思いつつ、でもけっきょく、起きてしまうんです。

主婦なので、さいきんは2時間は許されないかもしれませんが、この休み中、1時間くらいは、そんな心地よい漂いをしていました。


これも、きょうの予定が朝からびっしりと、では楽しめません。

けれども、予定が一日じゅう何もない、いくらってもよい日が続くというのでは、また、快いばかりではないようです。


 たとえば朝、ベッドの上で目を覚ますと、今日一日どうしようかと考える。考えても何も思い浮かばないので、そのままの姿勢で横になっている。
 (中略)
 私が見た時、ピエールはすでに眼を覚ましていた。だが、彼は起きようとする気配もなく、ぼんやりと天井を眺めていた。横顔は、今までっていたとは信じられないほど疲労を濃く滲ませ、眼は背筋が冷たくなるほど虚ろだった。そうだ、しかし起きたところで何をしたらいいというのか。


これは、沢木耕太郎さんの『深夜特急1』にある、描写です。

けして、病院でも、なにかの収容施設でのようすでもありません。

インドのデリー、そのニューデリーの鉄道駅の裏手のメイン・バザールの一角にある、一日4ルピー(140円くらいだったそうです)の宿でのはなしです。

お金がないからというわけではない、移動できないほど体が弱っているわけでもありません。

もともとは世界の国々からやってきた若者たちが、外部からの刺激から切りはなされ、そのに漂っているあいだに、きみょうな安らぎとともに沈殿している、そんな場所でした。

まわりは活気のあるバザールで、早朝からにぎやかく、香辛料の刺激の強い匂いがただよってきます。

けれども、この宿の住人たちは、どこへでも好きなところへ行かれるのにベッドから離れず、会話もほとんどなく、食事のためだけに体を動かす、そんな生活に浸りきっています。

どこを観光しようといっても、お金をかけずに行かれるほどのものは見尽くし、かといって次の場所へ移動しようとするだけの気力もふりしぼれないかのような、自由なはずの、若者たち。


放浪の旅の魅力のはずなのに、目的がないと人間は、それほどかんたんに怠惰に身をまかせるようになるのでしょうか。


それが悪いとか思うわけではありませんが、ちょっとコワくなるようなはなしです。



「春不覚暁」
も、やはり、啼鳥を聞き、風雨や花落を思いながらであってこそ、ですね。


 



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動画深夜特急 ペナンその1

動画大沢たかお主演 「劇的紀行深夜特急 熱風アジア編」

ブログナポリのサルトリアから学んだこと 『バックパッカーのバイブル 深夜特急 沢木耕太郎著 』

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