現在、高遠城を包囲している敵の大将は、信長の長男・織田信忠であった。
三峯川をへだてた彼方の台地には、見わたすかぎりに織田軍の篝火が燃えさかっていた。
織田軍の総大将・織田信忠の本陣から鳴りわたる法螺貝に応じ、高遠城を包囲している麾下の諸将の陣営から、いっせいに法螺貝が鳴りひびいた。
うすれかかる霧の彼方に、おびただしい織田軍の戦旗や指物・馬印などがうごきはじめた。
敵の軍馬のいななきが、城内の将兵の耳へ、はっきりとつたわって来るばかりでなく、命令を下す敵将の声までがきこえる。
織田軍は、搦手口の下と、藤沢川をわたって北側の三の丸曲輪の崖下へ押しつめて来た。


武田信玄が伊那の高遠氏の城を奪い、自領の重要な拠点のひとつとして増改築したものが、ほぼ今の高遠城のもととなっています。
その武田信玄も病気で没し、武田勝頼があとをつぎ、高遠城の城主には仁科五郎盛信をおきました。
現・長野県上伊那郡高遠町の、月蔵山(海抜千メートル)の山裾が西へのびた地点に兜山とよばれる丘がある。ここに高遠城が構えられていた。
いまも高遠城址を訪ねると、若干の櫓門や櫓、草や木の生い茂る空濠、それに昔日の城郭の面影を濃厚にとどめている石垣などによって、この城が戦国の時代には伊那谷の中で、もっとも堅固な城郭であったことがわかる。
『真田太平記』池波正太郎
そして、仁科五郎盛信は、若いながら、高遠城内で壮絶な死を自らとげるのです。
春、桜にはまだ少しだけ早い頃だったでしょうか。
その後の高遠城はといえば、保科正直が城主となり、江戸時代は高遠藩として鳥居氏、内藤氏らが高遠城にはいって藩を治めました。
明治の廃藩置県によって、一時は高遠県、その後筑摩県となりましたが、明治9年には、げんざいの長野県となったそうです。
明治になってからこの間に、高遠城は建物や樹木を競売して取りはらわれました。
桜の名所としてのはじまりは、高遠藩士達が桜の馬場から桜を、荒れ地となっていた高遠城跡に移植したことだそうです。
この桜は、タカトオコヒガンザクラと呼ばれ、高遠固有の種類なのだそうです。
高遠の桜のすばらしさは、旧高遠藩士が植えたそのままに、後に植えたものも同一種類で、樹齢130年から約1500本もの桜の木があることでしょう。
多くの人の魂を安んじるためのように植えられた桜は、いま、観光名所になっています。
あまりに多くの観光客がいる場所では、感慨に耽ったり歴史をおもったりはしずらいのですが、ゆっくり歩いて、曲輪、櫓、濠と、城の昔のすがたやそこにいたであろう人々を思いだすのも良いですね。
桜たちも散りはて、人も訪れもまばらになり、古のひとびとの魂も静かに初夏をむかえつつあるのでしょうか。
スポンサードリンク
関連HP高遠城
関連HP高遠城址公園案内図
動画■日本三大桜の名所 高遠城址公園
ブログ♪僕とMOTと品川で。『お花見2009ーその4-2(高遠城址公園昼編)』
ブログ♪ビザンチン皇帝の日常『お花見2〜高遠編〜』