その風花さんのブログに、最近こんな言葉がありました。
⇒風花心伝ブログ
「自分自身に水をやり続けるような潤いに満ちた仕事をしてほしい」
これを読んで、ああそうだったんだ、と納得できたことがあるのです。
『うつの世界にさよならする100冊の本』(寺田真理子、著)のなかに紹介されている本で、『愛されてお金持ちになる魔法の言葉』という本について言っていることです。
「いまの気持と少し違うかな」という違和感があるかもしれません。それでも、いい言葉を使うことで、その言葉に引っ張られるようにして、精神状態がよくなっていくのを実感してみてください。
「最初は、本心から言えなくても構いません。…」
小学校や中学校のころ、作文や読書感想文の発表を聞いて、違和感をおぼえたことはありませんか?
私は、ちょっと拗ねたところがある子どもだったのか、あんなことを書いていてもきれいごと、口先だけ、と思ってしまうことがありました。
それは、いま思えば、大人が手を入れた、理想的な言葉を綴った作文だったから、ということかもしれません。
いま自分でブログの言葉を書いていても、突き詰めてしまうと、本当のほんとうにそう思っているのか、と、書けなくなってしまいます。
自分の書いたことに責任を持たないといけないのじゃあないだろうか、もっと、本音をぶちまけるようにした方がいいのではないだろうか。
以前には私も、たとえば同居の辛さから、嫁としての立場から姑や舅に、文句や苦情を浴びせかけるようなことを書いたり、辛くて仕方がないのに誰もわかってくれないという言葉をつらねたりしていました。
ぱーっと書いて、発散したら、日常生活でぐちぐち言っていなくてもよくなるのでは、と思っていたのです。
もちろん、同情者もいるし、そうだよねー、というコメントもありましたが、それでも、いくら書いてみても、気持が治まるというわけにはいきませんでした。
人の悪口を言っているつもりでも、「自分の吐き出した毒を、そのまま全身に浴びているようなもの」とさきほどの本にも書いてありましたが、まったくそのとおりなのでした。
書いているあいだに、またむらむらと怒りがわいてきて、コメントを読んでまた思いだして悲しくなって。
「自律神経系は時や人称の区別をしません」
これは、脳としても正しいことで、「自分の心と他人の心について、共通の脳の領域で処理していて、最後の最後に『これは自分の気持ち』『これは他人の気持ち』と振り分ける」(『茂木健一郎の脳科学講義』)ようなはたらきをしているようなのです。
悲しいことや、辛い、恨みがましい気持ちを言葉にして現せば著しただけ、自分ももういちど、その体験を脳の中で繰り返しているわけです。
そして、たとえばその言葉を書き綴ったブロブを、他人が読んだら、また同じように辛い悲しい気持ちをひろげていく。そんな連鎖になってしまうわけですね。
たとえ今、そうでなくても、ブログで言葉にしたら気持ちもついていく。いまの気持より、ほんの少し楽観的だったりするかもしれないけれど、前向きな気持ちを表現することで、読んだ人にも嬉しいきもちがひろがっていくかもしれない。
そんなふうに続けることが、自分の心に水をやり続けることになるんだろう、と、思えるようになってきました。




