2008.10.14

障害ということ

障害は、まったく、社会が勝手に作り上げる概念

その状態が、個人にとってどうであるかにかかわりなく、普通の世間で生きにくく、世の中から不利益をこうむったり、差別を受けたり、はじき出されたりしたときに、障害というものになるわけです。


障害をもつ子のいる暮らし』 毛利子来・山田真・野辺明子 編著


NHKスペシャルの「読字障害〜文字が生んだ病〜 」を見ました。

これを、病とか障害、と呼んでよいものなのか、とても疑問に感じています。


読字障害とは、文章を読むのに困難であるひとたちのことを言います。

聞いたことばや、記号で書かれたものごとは理解できるのですが、文章に書かれたことばをすらすら読んだり、読んだことをすぐに意味に結びつけることができにくいということですね。

日本では、20人にひとりいるそうですから、40人のクラスとしたら、2人くらいはいることになるわけですね。


  「頭のよさ」は遺伝子で決まる!?




この番組を見たかぎりでは、読字障害は機能的な問題というより、文字を読んだときの情報処理の方法が他の人とは異なっている、ということであるように思えました。

それは、たとえばお酒を飲める・飲めない、車に酔う・酔わない、とか、歌をうたうと音程が外れるとか、方向音痴であるとか、そういう事と同じことのように感じます。

おなじ人間のでおこる反応のはずなのに、個人差がありますよね。
ほ乳類として進化し、人間としてのができあがってきたころからの、地域や個体差の遺伝の積み重ねが、その差としてあらわれているのでしょう。


人が文字を使いはじめたのはかなり昔の事ですが、ひろく一般的に誰でもが文字に接するようになったのは産業革命以降ということです。

には、もともと文字を扱うための領域というのはなかったので、まあ一番使いやすいの部分を使ってみました、ということらしいですね。

ところが、文字を扱いやすいもあれば、そうでないもあったということに、ごく最近になって研究者が気がついたというわけです。


義務教育がはじまり、だれでもが字を読むことができることを前提として教育をし始めたこと自体が、間違いだったともいえるわけです。

たまたま、あとで気がついたら、字を読みにくい人たちがいた、そういうことに気がつかないで教育をすすめてきた人たちにこそ、問題があったのではないでしょうか。

アメリカでは、読字障害があるということに気がついてから、専門的な教育や訓練を受けられる場が広く設けられてきましたが、日本ではまだまだです。

LD(学習障害)としてひとくくりにされ、その子どもたちをどう教育していくのかは、学校なり現場の教師の力量に頼っているのが現状だと思います。


障害ということばで連想するのは、どんなことですか?
かわいそうだったり、哀れみだったり、何かできない人、特殊な人というイメージがつよくありませんか?

わが家の長男は、重度心身障害児です。
重度だなんて、どんなに障害が重いのだろうと思いませんか?

もちろん、生きていくこと自体が、呼吸や食事や健康管理の面からいえば、大変ではあるのです。

それでも、重度心身障害児ということばは、当人や家族にとっては、嫌な響きでしかありません。
ほかに、周りの人にわかりやすく伝えるべきことばがないから使っているのです。


障害、といったとたんに、自分とは別の世界のひとになってしまいます。
○○ができない人、という否定的な言い方も嫌なものです。


周囲の人が、なるほどそういう人なんだなと認めたならば、ごく単純に、たりないことをサポートするなりフォローするなり、障害と名付けたり区切ったりしないでも自然にできたら、どんなにいいかと思います。





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